済広寺のご紹介

済広寺の歴史

 『日高郡誌』によると、当寺はもと「隣村小池にあり、檀戸僅に18戸なりしと、永禄年中(1558~69)現在地に移る」とあり、『日高町誌』にも「海北山 清浄院済広寺といって小池の寺谷にあり、真言宗の寺院であった。和田方面の発展とともに戸数も増加したので、永禄年間和田552番に移転し」とあります。元禄5年の「由緒書之覚」には、当寺は古来より九品寺の末寺であり、開基の年代は不詳、5代以前の僧は専了と言い、この僧より以来100年になるが中絶なく村中の滅罪所であったと、記されています。当寺が真言から浄土宗へ改宗したのは第2代諦誉了山のときとされていますが、「日高鑑」が書かれた延宝6年(1678)には明らかに浄土宗寺院でした。

 第2代諦誉了山は当寺中興の人とされており、方5間の本堂その他を建立して、浄土宗寺院としての体裁を整えたと考えられます。その後第11代高誉霊天のとき庫裡を再建しますが、第12代行誉正賢の文政13年(1830)6月、火災により本堂・庫裡及び什器類等一切を消失しました。このとき第13代賢孝はまだ15歳の弟子でしたが、猛火を冒して過去帳や印鑑を救ったと伝えられています。天保13年(1842)8月、正賢によって間口6間奥行7間半の本堂の上棟式がおこなわれました。たび重なる天保の飢餓の中での再建でしたが、これが平成29年(2017)に解体されるまで175年続いた旧本堂でした。

 明治22年(1889)8月、十津川大水害により日高川が氾濫、流されてきた観音様を町民が拾い上げお祀りしていたものを、当寺14代徳成和尚が寺内に移しました。それから、不思議な縁によってこの地にたどり着いた観音様を、多くの人々が慕い崇めるようになったのです。​その時の様子を当寺では「済広寺観音和讃」として、現在まで語り継いでいます。

木造11面観音立像

歴代上人

開  山 不明
第 2代 諦誉了山大德
     貞享5年(1688)6月15日寂
第 3代 還誉増愚大徳
           元禄3年(1690)2月29日寂
第 4代 信誉玄秀大徳
     享保4年(1719)8月15日寂
第 5代 徳誉智音大徳
           天明5年(1785)5月寂(遷化日不明)
第 6代 愍誉洞雲大徳
           元文3年(1738)9月18日寂
第 7代 勝誉願力玄超大徳
           天明元年(1781)6月21日寂(門前長太夫の子息)
第 8代 勇誉猛進高哲大徳
           寛政10年(1798)6月20日寂(野口村安楽寺二男)
第 9代 入誉玄門大徳
           文化11年(1814)2月20日寂(富安村大專寺二男。文化9年退寺)
第10代   圓誉光岸眞教大徳
           文化13年(1816)8月26日寂(財部村善九良子息。往生寺霊真の弟子)
第11代   高誉名称霊天大徳
           文政9年(1826)7月10日寂(三ツ川平吉の弟。法林寺知全の弟子。佐井極楽寺より転住)
第12代 願蓮社行誉上人真阿正賢和尚
           安政4年(1857)5月13日寂(尾ノ上德次郎子息)
第13代 浄蓮社善誉上人養阿慈悲心順孝和尚
           明治32年(1899)3月12日寂(天田村彌助の三男萬藏。御坊新町へ隠居)
第14代 寛蓮社宏誉上人功阿不可思議徳成和尚
           明治30年(1897)8月4日寂(天田村藪中政右エ門三男。俗名川嵜徳成)
第15代 大蓮社道誉上人純阿慈悲心見成大和尚
           昭和26年(1951)9月2日寂(増田源太夫四男。九品寺第27代に転住。俗名増田見成)
第16代 浄蓮社願誉上人心阿寬成和尚
           昭和4年(1929)7月21日寂(高家土崎家出身。俗名堀口寛成)
第17代 光蓮社赫誉上人眞阿實正輝雄大和尚
           昭和31年(1956)11月19日寂(第15代見成の長男。俗名増田輝雄)
第18代 恭蓮社謙誉上人明阿心照義孝大和尚
           昭和59年(1984)9月14日寂(川辺町江川中畑家出身。俗名増田義孝)
第19世 謙蓮社光誉上人信阿秀穗
           現住職(第18世の長男)